清水作品とオリジナリティ
清水敬太さんによる54枚の「長編」と言っていい紙芝居がこのほど完成した。お母さんに話をうかがうと、「見せてもらえない漫画を除けば、長編ストーリーものは初めてだと思います。アート・インクルージョンに移って、何かしようという意気込みもあって生まれてきたものではないでしょうか」と、この4年におよぶ制作について語った(ちなみに「見せてもらえない漫画」は今回、本人の同意を得て入手することに成功、本ウェブサイトで公開している)。
敬太さん本人に紙芝居について聞くと、「僕のオリジナルですよ。自分で考えました」と、何度かこの「オリジナル」という言葉が出てくる。一方で、お母さんからは、「小学校の国語の時間に読んだ『名前を見てちょうだい』という話がベースになっている」とのこと。調べてみると、確かに主人公えっちゃんことうめだえつこ(紙芝居のはじめでは「あずきちゃん」として登場するが、途中で実はうめだえつこだったと説明される)や、きつねやうし、大男といった登場人物、ストーリーは、「名前を見てちょうだい」と酷似している。また、紙芝居54枚は全部で4つのパートに分かれており、最初の1枚目のタイトルは「ぼうしさがしとふしぎのぼうしのくにと」だが、パート2からパート4までのタイトルは「名まえを見てちょうだい」となっている。 一見すると「二次創作」や「パロディ」と言った方がよさそうでもあるが、これを「オリジナル」とあえて何度も語る中に、私は本作の位置や役割、ひいては敬太さんの世界理解や世界との対し方につながる手がかりがあると思う。それは文学や芸術作品を使って我々がこれまでいったい何をしてきたのか、あるいは我々が「オリジナル」という言葉で何をしてきたのかを突きつけてくる行為ではないかと考えている。 「名前を見てちょうだい」は、児童文学者あまんきみこ(1931年生まれ)が、1989年、フレーベル館から出版した同名作を教材として書き下ろしたもので、東京書籍の国語小学2年生下巻におさめられている。特に音読の工夫を誘引するための教材として用いられていることが、ネット上の検索結果からうかがわれる。 ストーリーは次のようなものだ。主人公うめだえつこがお母さんから、名前を刺繍してもらった赤い帽子をもらうが、遊びに出かけようとしたとたん、風で飛ばされてしまう。探す中、飛ばされた帽子とよく似た帽子をかぶったきつねに出会ったことで、それを自分の帽子と考えたえつこが、「名前を見てちょうだい」とつめよるが、そこに刺繍されているのはきつねの名前だ。するとまた風で帽子は飛ばされ、今度はえつこときつねが帽子を追うが、同じような帽子をかぶったうしに出会い、また同じようなやりとりを繰り返す。再度帽子が飛ばされ、それを追うえつこときつね、うしは、今度は帽子を手にした大男に出会う。同じように「名前を見てちょうだい」と言う3者に対し、大男は名前を見せるどころか食べてしまい、さらには「もっとなにか食べたいなあ」とプレッシャーをかけてくる。おじげづくきつねやうしに対し、えつこは毅然とした態度で「あたしは帰らないわ。だって、あたしのぼうしだもん」「あたしのぼうしをかえしなさい」とつめより、おそれをなした大男はしぼんであとにはえつこの帽子が残された。帽子を取り返し、「それから、えっちゃんは、あっこちゃんのうちにあそびに行きました」と結ばれる。文字数で2000字ほどの物語だ。 作者あまんきみこは旧満州生まれ。女学校2年生14歳のときに敗戦を迎え、ソ連軍占領下の大連で2年近くを過ごしたという。その後、日本へ渡り、20歳で結婚。日本女子大児童学科通信教育部に入学し、早大童話会から派生した児童文学サークル「びわの実学校」などで活動、評価され、90歳の現在も現役という息の長い創作活動を行っている。「名前を見てちょうだい」について作者は、赤いフェルトの帽子が風で飛ばされ、川へ落ちてしまい、大泣きした自身の体験がもとになっていること、また「名前」のもつ重要性について語るとともに、以下のように語っているという。 「このかけがえのない名前の子の人生が、いっぱいの喜びであふれてほしいと。そして、そのような人生にでも必ずや起きるであろう、きつねや牛の不可解、それから大男の理不尽に対しては、このえっちゃんのようにしっかりと相手を見て、目をそらさずに言ってほしいと。「名前を見てちょうだい。」「あたしのぼうしをかえしなさい。」というふうに」 清水作品に話を戻そう。54枚の紙芝居は、4つのパートに分かれている。 1枚目から9枚目までのパート1は「ぼうしさがしとふしぎのぼうしのくにと」と題されている。赤いぼうしをかぶった「あずきちゃん」が、こがらしにぼうしをとられ、きつねやうし、大男が登場していく流れは、あまんきみこの「名前を見てちょうだい」を知っている人からすればすべて「どこかで見た展開」に違いない。しかしそれと同時に大きな違和感を抱くのではないだろうか。 最も大きいのは、あまん作品では作者自らが重要な意味を持っていると語っていた「名前」の扱いだ。清水作品では帽子に名前の刺繍という重要な設定がない。そもそも主人公の女の子が「あずきちゃん」として登場した後、パート1の最後となる9枚目で「すいませんごめんなさい じつは、あずきちゃんじゃなくて、ほんとのなまえは、うめだえつこ えっちゃんとよんで!! あのおはなしは、なまえをみてちょうだいなのだ」と、衝撃の事実が明らかにされる。すなわち、主人公の「かけがえのない」はずの名前はいともたやすく撤回され、タイトルという物語につけられた名前すらも軽々と書きかえられる。あらかじめそうであった名前(オリジナル)に「戻された」、あるいはそれに先行する「本当の」何かがあった、というこの「設定」自体があまりに意味深い。 ほかの差異を見ていこう。あまん作品では単なる「風」が、清水作品では「こがらし」として擬人化され、物語全編に渡り重要な役割を果たす(パート4ではラブコメの主人公にすら取り上げられる)。きつねやうしはあまん作品におけるような、えつこにとっての「他者」ではなく、ともに帽子を追い求める仲間として描かれている。また、大男は帽子を食べようとした時点であずき(えつこ)に制止され、あまん作品のようにしぼんで消えることなく、反省の意を表してあずきらに許される。 あまん作品では取り上げられることのないこの「許し」は、清水作品では重要なテーマになっている。清水さん本人へ、この物語で何を一番伝えたいかと聞いたところ、「悪いことをしてもちゃんと反省すれば許されることですよ」とこたえている(残念ながらその貴重なインタビューは機材トラブルのために音声が録画できていなかったため、証言は門脇の記憶による。ごめんなさい)。 パート1の大男のほかにも、パート4ではかきの木やおじぞうさん、たぬきが反省する姿が語られる。お母さんからは「怒られるのがとにかく嫌い」との証言を、「なぜあんなに礼儀正しいのか」という質問の中で得ているが、清水さんのこうあってほしい理想の世界として、真摯に反省すれば人は許される(べきだ)というものがあるのではないか。そしてこう考えてくると、あまん作品と清水作品の立ち位置の違いが明らかになってくる。 あまん作品では主人公えつこが「あたしのぼうしをかえしなさい」と、「しっかりと相手を見て、目をそらさずに言」うことに作者の思いがある一方、清水作品では、パート1で言えば、帽子を食べようとした大男の側に立って、パート4ではかきの木やおじぞうさん、たぬきらの側に立って、すなわち「悪いこと」をして反省を強いられる側に立ってこの物語を描こうとしているように見える。それはあまん作品にないというだけでなく、その設定を借りるというかたちをとることで、その世界を広げようとしているように見えてくる。それは「悪いこと」をしてしまったという立場から世界をながめなおしてみることであり、その底にあるのは、単なる児童文学ではなく、小学二年生の教科書に取り上げられているというある種の「権力」をもったこの物語が、「あたしのぼうしをかえしなさい」と「しっかりと相手を見て、目をそらさずに言」うことを、自立や成長と一直線につなげて語ってしまうこと、少なくともそれを言われる側に立った視点なくそれをあたかも鬼の首をとったかのように拍手喝采して語ってしまうことへの違和感や不安、もっと言えば恐怖のようなものなのではないだろうか。 ところで先に私は物語のテーマとして「悪いことをしてもちゃんと反省すれば許される」という清水さんの証言を取り上げた。一見、至極真っ当な意見のように聞こえるが、それは「悪いこと」というものが誰にとっても同じものを指すときにのみそうなのであって、そもそもの「悪いこと」についての共通認識がない場合には、この言明すべてが不安定で、それゆえにその言葉の指し示す内容は、「至極真っ当」とは似ても似つかぬものになる。 パート4では、こがらしが、かきの木にひとめぼれをする。かきの木に告白するがふられ、ショックを受けるが、今一度かきの木のもとへ戻ると、そこではかきの木がおじぞうさんと愛の告白をしている。こがらしは「よくもだましたな!!」とまったく理不尽な怒りをふたりにぶつけるが、逆にふたりの「ラブラブファイアー」でかえりうちにあう。この救いのない場面に現れたのがこがらしガールで、彼女はこがらしをなぐさめるとともに即座に愛の告白、そして結婚までしてしまう。これによって事態は収拾するかに見えた中、えつこはいきなり伝家の宝刀たる「あたしのぼうしをかえしなさい!」と全く意味不明な一喝をし、「かきの木とおじぞうさんとたぬきは、ぼうしロケットにはいって、うちゅうにさまよって、はんせいする!!」というどうにも理不尽な反省の場面へと至る。むろんこれらは私が物語を勝手に単純化し、解釈を加えたものに過ぎない。実際には主語を明確化しない特徴的な清水さんの文体もあって、作者の意図するものとは違うのかもしれない。しかし私はその特殊な文体が、この「藪の中」的な雰囲気をいっそう高めるのに寄与しているように思える。あえてそれらを単純化し、ここで作者が言わんとしていると私が考えていることをひと言で推測するなら、「本当にその人たちが悪いことをしたと言えるのか」そして、「そもそもそれは「悪いこと」なのか」ということではないかと思う。そしてそこでは「悪い」/「悪くない」などという単純なこたえを導きたいのでもない。 こがらしをふったかきの木が、おじぞうさんと愛の告白をしてこがらしから「だましたな」などと言われなければならない筋あいなど、当然ながらない。だからもちろん、宇宙をさまよって反省する言われなどもない。しかし清水さんがここで「悪いこと」として取り上げようとしているのは、まさにそうした「悪いこと」をめぐる「理不尽さ」や「割りきれなさ」についてなのではないか。 たとえば、「悪いこと」は常に悪いこととして、その根拠とともにそう認定され、反省を強いられるものなのか。逆に「悪くないこと」もおうおうにして「悪いこと」にされ、反省を強いられたりすることはないのか。そして「悪いこと」を認定し、反省を強いるあり方=権力装置とはいったいどのようなものなのか。 こうした解釈がまったくの的外れでもないことを見るために、パート1における大男の反省の場面を検討してみよう。パート1では帽子を食べようとした大男があずきたちに怒られ、「なきだして、もうぼうしを食べないとものすごくはんせい」する。しかし、なぜ大男は突然現れたあずきたちに怒られ、反省しなくてはならないのだろうか。そもそもがこがらしが運んできた帽子である。また、帽子を手にしたとたん食べようとすることから、大男には帽子を食べるという習性があるのかもしれない。あずきたちにとって帽子はかぶるものであり、帽子は誰かの所有物であることは明らかなのだろうが、大男にとっても同様とは限らない。 そうした他者としての存在、倫理観や文化的背景を共有しない存在との係争における解決方法として考えられるのは、平和的解決としての話し合いか武力行使のいずれかだろう。 あずき(えつこ)がパート1、パート4のいずれにおいてもとったのは、話し合いではなく、広い意味での力の行使だと私は思う。反省を強いられる相手がなぜそれを反省しなければならないのかを十分に納得することなく、ただ「悪いこと」として反省させられるその姿はあまりに恐ろしい。と、ともに、我々の歴史がこれまで幾度となく繰り返してきた過ちでもある。 そうしたことをあぶり出し、ギャグコメディ仕立ての背後に浮かび上がらせようとする清水作品は、あまんによる「名前を見てちょうだい」の二次創作やパロディなどといった次元の仕事ではなく、そこに含まれるさまざまな問題点を、そうしたことを積極的によしとする価値観を内包しつつ小学二年生のこどもたちを「教育」しようとする社会の責任とともに浮かび上がらせようとする高度な批評行為と言えると言ったら、解釈が過ぎるだろうか。 パート2におけるミステリー仕立ての犯人さがしや、パート3におけるドタバタ冒険劇、そして何より大団円へと向かうパート4など、清水作品についてはまだまだ語るべき内容には枚挙に遑がない。それらもあまん作品に対して行ったような引用や解釈、批評のオンパレードとなっている。つまりは、清水さんというフィルターを通して見えたこの世界というものの像が結ばれている。 ここに至って、清水さんが「僕のオリジナルですよ」と口にしたこと、そうとしか口にできなかったことに思い至るのではないだろうか。まさにそれこそが、清水作品のオリジナリティなのだ。 (現代アーティスト・本展キュレーター 門脇篤) |