お母さんに聞く1989年生まれです。1歳前後まではふつうにコミュニケーションできていました。それから言葉が進まなくなって、あれ、なんか違うかなと。3歳のときに小児科検診で、障害があるということになり、市の支援施設に親子で通って、コミュニケーションや集団での遊び方などの訓練を受けました。
幼稚園では言葉が出ないので、何かあるとかんでしまい、その都度ひらあやまりでした。今日、何かありそうと思うと「かみました」と連絡が来て。でも園長先生にはよくしてもらいました。 みんなと遊ぶのが苦手なので、園庭のすみで自分の世界にひたっていたり、発表会でひとりだけちがう動きで目立ったりしていました。ねんどが好きで、絵を描くのもそのころから好きでしたね。 小学校は片平丁小学校でした。それまでなかった特別支援学級を敬太ともうひとりの子のために作ってもらい、その後だんだん人数が増えていきました。支援学級以外のクラスでも学びましたが、支援学級では先生方が絵や工作などいろいろ工夫してくださいました。 中学は五橋中学校、高校は鶴ヶ谷特別支援学校へ。鶴特では、いろいろなグループで作業をするんですね。きのこ班とか。敬太はなかなかのっていけない。そんな中、先生がカレンダー班に入れてくれて。世界遺産を版画にしたカレンダーを作って文化祭で売ったんですが、敬太が下絵を担当したんですが、そのころから「すごいですね」とまわりから言われるようになり、親のひいき目でなく、本当に才能があるんだと思えるようになりました。 とはいえ、まさか卒業後も絵をやっていけるとは思ってはおらず、手に職をということで、まんじゅうやそばを作って販売している施設に入りました。そこにいた美術好きの支援員の方がエイブルアートに応募してくれて、宮城県で始めて作家登録していただけることになり、サンドイッチや象などの絵を靴下やハンカチにしていただきました。 といっても、アートを仕事にしている施設というわけではなく、震災もあって、絵や工芸などをやる機会もなくなってしまったので、絵を描けるところへ移ってはどうかということになり、エイブルアートから何箇所か紹介していただいたひとつが、アート・インクルージョンでした。 行ってみると、「こういうのを描いて」ではなく、本当にとにかく好きなものを自由に描いていいというところで、すっかり気に入って通うことにしました。とっかかりが紙芝居だったのだと思います。小学校の教科書に出て来た物語がベースにあると思いますが、こそこそ描いていて見せてもらえない漫画がどこかにあるらしいのをのぞけば、ストーリー性をもったものはほとんど描いていないと思います。劇団四季やディズニー、テレビだとお笑いが大好きで、頭の中にそうしたいろいろなものがうずまいているんだと思います。 小学生のころから画風はもうあんな感じでした。私が幼稚園や保育園の仕事をしていることもあって、家ではよく工作をしていました。小さいころからはさみが上手で。それと集中力と記憶力がとにかくすごくて。塗り方もすごいし、1回見たものは描けてしまいますし、何年何月何日いつのできごとだったなどしっかり覚えています。 あの礼儀正しさは、先生方の教えのたまものだと思います。私も男の子は厳しくと思ってしつけました。小さいころからしゃべり方もずっとかわりません。なので私たちにとってはいつまでも小中学校のまま。誕生日は来るけど歳をとっていないような感覚です。 敬太は宝物です。家の中をおだやかにしてくれる存在で、家族は敬太を中心に回っています。夫は「敬太は神様だ」と言っています。 就労ということも考えましたが、これまでいろいろやってみて、難しいだろうなと。これからも好きな絵を描いたり、細く長く、好きなことをつづけていってほしいと思っています。 |